狹々波山で飾船に装い相楽館でもてなす

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欽明天皇(九十一)狹々波山で飾船に装い相楽館でもてなす

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原文

是月、遣許勢臣猿與吉士赤鳩、發自難波津、控引船於狹々波山而裝飾船、乃往迎於近江北山、遂引入山背高楲館。則遣東漢坂上直子麻呂・錦部首大石、以爲守護、更饗高麗使者於相樂館。

現代語訳

この月(即位31年5月)に許勢臣猿(コセノオミサル)と吉士赤鳩(キシノアカハト)を派遣して難波津(ナニワノツ)から出発して、船を狹々波山(ササナミヤマ=現在の滋賀県大津市の逢坂山)に控(ヒ)き引(コ)して、飾船(カザリブネ)に装って、近江の北の山(=琵琶湖の北岸?)に向かわせました。山背(ヤマシロ)の高楲館(コマイノムロツミ)に引き入れて、東漢坂上直子麻呂(ヤマトノアヤノサカノウエノアタイコマロ)・錦部首大石(ニシコリノオビトオオイシ)を派遣して守護(マモリビト)よしました。また高麗の使者を相楽(サガラカ)の館で歓迎して宴会をしました。
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解説

船は琵琶湖へ
難波から船は川を上って琵琶湖の南…つまり川から琵琶湖へと出てすぐの狹々波山に到着しました。ここで、一旦、船を上陸させて、そこで船を飾った。越国に流れ着いた高麗の使者を歓待するためでしょう。

ところで越国に流れ着いた高麗の使者を、山背国で歓待するわけですが、この越と山背国という組み合わせ、継体天皇のときにも見ました。

継体天皇は近江国(=現在の滋賀県)の出身で、幼少時に父親を亡くしたために、母の実家である越国へと移住。その後、後継者の絶えた武烈天皇の死後に、応神天皇の五世孫として呼ばれて、その後は都を山背の筒城に移したとあります。

越と山背というか琵琶湖というのは、かなり密接につながっていたのでしょう。

越国は神功皇后あたりまでは、頻繁に物語に取り上げられてはいましたが、越は大和から離れているし、このところはほとんど登場していないので、どうも「軽く」思われがちですが、朝鮮半島だけでなく、中国東北部との交易もあったんじゃないかと思うのですね。また日本の東北の蝦夷とも交易があり、実は結構、強い地域だった。継体天皇が突然、天皇になったのも傀儡ではなく、それなりに有力な家柄で力があったからじゃないかと思います。
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