黄泉の国へ

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黄泉の国へ

漢字・読みヨミノクニヘ
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原文

是に其の妹伊邪那美命を相見むと欲ひて、黄泉国に追ひ往きき。爾に殿の縢戸より出で向かへし時、伊邪那岐命、語らひ詔りたまひけらく、「愛しき我が那邇妹の命、吾と汝と作れる国、未だ作り竟へず。故、還るべし。」とのりたまひき。爾に伊邪那美命答へ白しけらく、「悔しきかも、速く来ずて。吾は黄泉戸喫為つ。然れども愛しき我が那勢の命、入り来坐せる事恐し。故、還らむと欲ふを、且く黄泉神と相論はむ。我をな視たまひそ。」とまをしき。

現代語訳

死んだ妹(=愛する人)の伊邪那美命(イザナミミコト)に会いたくて、 伊邪那岐命(イザナギミコト)は黄泉の国へと追って行きました。

黄泉の国の入り口の塞がれた戸で出迎えた伊邪那美命(イザナミミコト)に 邪那岐命(イザナギノミコト)は
「いとしい我が妻!
二人でつくった国はまだ出来ていない。
だから帰ろう!」
と言いました。

するとイザナミ
「悔しいことです。
もっと早く来てくれれば、よかったのに。
もう黄泉の国の釜で煮た食べ物を食べてしまいました。
だから現世には戻れません。
でも、せっかく会いに来てくれたのだから
黄泉の国の王に相談してみます。
その間、決して覗かないで下さいね」
と言いました。
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解説

簡単に再会
死んだのに簡単に会えるのかとビックリします。
ここではハッキリと書かれていませんが、顔を合わせて対面したのではなく黄泉の国の入り口にある戸を間に挟んでの対話です。つまりイザナミがどんな状態かは分かっていません(暗くてよく見えないとする書籍もあります)。実際はすでに腐ってウジがわいています。
モガリ
古代では火葬はなく、土葬や風葬でした。土に埋めてしまったり、野に晒して風に吹かれて白骨になってから埋葬するというやり方でした。その中でも天皇や皇子、豪族といった有力氏族はモガリという方法をとっていました。
古墳を作り、そこに遺体を安置します。その遺体を定期的に遺族が様子を見に行くのです。この風習の名残が「初七日」などの定期的な法要となって残っているともいわれます。お墓に水を掛けるのも遺体が早く白骨化するようにという風習から来ているとも言われます。
このモガリという風習を物語にしたのが、このイザナギの冥府下りともいうべき黄泉の国のお話です。
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黄泉の国はどこ?

イザナミは島根(出雲)と広島の間にある比婆山に葬られたわけですから、少なくともこのお話の舞台は「比婆山」なのでしょうね。

黄泉の国には王が!

イザナギが現世に帰って以降はイザナミ=死者の国の王という意味合いになりますが、この時点では黄泉の国に別に王がいます。

はて――
天地開闢以降の天津神たちの誕生。
その中にそれらしきものがいたでしょうか?
――いない!
細かいことは突っ込まないのが神話の楽しみ方と割り切るのもいいですが、少し考えて見ましょう。

日本古来の世界観の中に『死者』の行くところは何処かというと根の国のようです。しかし、日本語にはこんな言葉もあります。
「草葉の陰から見ている」
つまり死者は死んでどこかに行くのではなく、目に見えない存在になってそこいらじゅうに存在する。それが日本の正しい死後のあり方です。根の国と言う言葉は日本神話の中に今後も出てきますが、生きている人でも行って帰ってこられる場所です。どうやらあの世とこの世の境目が非常に曖昧なのです。
そういう世界観が古来からあったようです。
つまり現世と根の国常世の国は同じ空間にあるのです。

しかし日本神話ではそこに新たに
高天原(天)」→「葦原中国(地上)」→「黄泉の国(地下)」
という上下三層の構造を持ち込みました。

ややこしいなぁ。

これは大和朝廷が自身の正当性を高める為に、他の国の神話を取り入れた結果ではないかと言われます。その他の国の神話というのがギリシャ神話や中東の神話であり、シルクロードからウィグル、朝鮮、日本と伝わった可能性があります。もしくは中東・インド・台湾・沖縄経由です。沖縄経由というのが個人としては現実的なルートと考えています。

コレに関しては比較神話の本を読むと面白いですが、物証がゼロなので妄想としては面白いですが、本気にしていいのかちょっと疑問。でも面白いです。
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