山代に到りし時、還り立ちて各退かずて相戦ひき

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山代に到りし時、還り立ちて各退かずて相戦ひき

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原文

この時忍熊王(オシクマノミコ)、難波の吉師部(キシベ)の祖 伊佐比宿禰(イサヒノスクネ)を将軍とし、太子(ヒツギノミコ)の御方には、丸邇臣(ワニノオミ)の祖 難波波根子建振熊命(ナニハネコタケフルクマノミコト)を将軍としたまひき。かれ、追ひ退けて山代に到りし時、還り立ちて各退かずて相戦ひき。

現代文訳

忍熊王(オシクマノミコ)、難波の吉師部(キシベ)の祖先の伊佐比宿禰(イサヒノスクネ)を将軍に任命して戦いました。

ホンダワケ皇子(=応神天皇)は、丸邇臣(ワニノオミ)の祖先の難波波根子建振熊命(ナニハネコタケフルクマノミコト)を将軍に任命して戦いました。

皇太子側が優勢で、戦闘はオシクマ王が後退していき、山城まで至りましたが、その後、オシクマ王は持ち直して、膠着状態となりました。
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解説

死後の子孫
伊佐比宿禰この後、死んでしまいます。しかし子孫はある。吉師部。この吉師部は阿部氏が統率していた儀式で踊る舞の集団。
この吉師部が神功皇后の敵の将軍の子孫ということは吉師部はあまり身分が高いものではない、ということになる。多分。

丸邇臣
5世紀から6世紀に勢いがあった中央豪族。なのでこの物語はこの時期に成立した物語と言われています。

個人的コラム

なぜオシクマ王は山城で
山城で盛り返したのか。
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