卑弥呼は神功皇后だと日本書紀にはある

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卑弥呼は神功皇后だと日本書紀にはある

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概要

まとめ
日本書紀には「神功皇后卑弥呼」と暗に示唆する記述がある(ハッキリとは書いてないが問題ないレベル)。ただし全て、中国の本の引用という形をとっている。
卑弥呼は247年か248年に死んでいる。
神功皇后三国史記の記述や好太王の碑文から考えても4世紀に活躍した人物。同一人物であることはない(と思う)。
●しかし大和朝廷には同一人物であるという認識があった。
仲哀天皇の死後、神功皇后がトップになったのは九州に「女王文化」があったから。女王だと皆が従う。それで九州北部を従えて朝鮮征伐をした。それが大和朝廷にとって大きな発展の転機になった。
●その際に、「神功皇后は卑弥呼の後継者」「神功皇后は卑弥呼の生まれ変わり」みたいな主張をしたのではないか。
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日本書紀「神功皇后は卑弥呼!」

日本書紀には魏志倭人伝で「卑弥呼」の行動とされる記述が神功皇后のところに記されています。日本書紀は暗に「卑弥呼=神功皇后」を示しています。

神功皇后(二十八)倭の女王が難斗米などを魏に派遣
即位39年。この年、太歲己未でした。
魏志によると、明帝(メイテイ)の景初三年六月に倭の女王が大夫(タイフ)の難斗米(?)などを派遣して、郡(コオリ)に行き、天子に会おうと朝献(チョウケン=中国の朝廷に詣でること)しました。太守の鄧夏(トカ=人名)は吏(リ=役人)を派遣して、京都(ケイト=ここでは洛陽)に詣でました。


神功皇后(四十)倭の女王は訳を何度もして貢献しました。
即位66年。この年、晋の武帝の泰初二年です。晋の起居(キキョ=中国での天子の言行・勲功を記した日記帳の記述)によると、武帝泰初2年10月に倭の女王は訳(オサ)を何度もして貢献(コウケン=貢物を献上する)したと言います。


どちらも砕いて説明すると「中国の本には倭の女王が使者を中国に派遣したと書いてある」ということです。その女王というのが神功皇后だよ、と捉えていい書き方です。となれば神功皇后=卑弥呼ということになります。
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時間の隔たり

しかし、そもそも中国の本の引用なんですよね。確かに引用する事で「神功皇后=卑弥呼」と示唆しています。日本書紀の編者は「神功皇后=卑弥呼」だとしているのは間違い無いんですが、「引用」であることも隠してないんです。
卑弥呼=神功皇后はありえない
古事記・日本書紀の編纂は8世紀(712年・720年)です。卑弥呼が死んだのが248年(もしくは247年)。神功皇后が活躍した時代はおそらくは4世紀。その差は数十年。卑弥呼=神功皇后はありえません。

また、神功皇后の時代から古事記の編纂までは400年近い隔たりがあり、日本が本格的に文字を使い始めたのが7世紀。おそらく日本側には神功皇后時代の「本」なんて無かったのではないかと思います。日本書紀には中国や特に朝鮮の本の引用が見られます。日本書紀の推古天皇より以前の部分は、伝承を中国朝鮮の本で補完した内容と考えた方が自然です。つまり、ひっくり返せば大和朝廷には「神功皇后=卑弥呼」という伝承はあったということです。

神功皇后と卑弥呼は「同一人物」という伝承が大和朝廷にはあったんでしょう。しかし、それを証明するような文献はなかった。そもそも日本にはほぼ文献はなかったのだと思います。だから中国の歴史書から引用するしかなかった。
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なぜ大和朝廷は卑弥呼と神功皇后を同一人物だと思っていたか

なぜ同一視していたか?
ではどうして、大和朝廷は卑弥呼と神功皇后を同一人物だと考えていたのか? それに関しては「九州を勢力下に置くためには女王が適していた」からだと思います。仲哀天皇が死亡した時、まだ応神天皇は生まれおらず、仲哀天皇の子供である忍熊王などがいましたから、彼らを天皇にすればよかった。でも神功皇后が女王になった。
なぜか?
それは九州には「女王文化」があったからでしょう。九州では女王が治めると上手くいくという考えがあった。邪馬台国もその考えの結果だった。そこで神功皇后を女王にして北九州を勢力下において朝鮮征伐に向かった。その時「神功皇后は卑弥呼の生まれ変わり」みたいなことを主張したんではないでしょうか。そうでないと九州の人が従わなかった。
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日本書紀は中国向けの本ではないのではないか?

だから大和朝廷には「神功皇后=卑弥呼」という認識があった。それで中国の本を引用して「神功皇后=卑弥呼」という記述になっているんだと思います。
引用??
ただ、私は「引用」しているってのは不思議だと思うのですね。引用ではなく、はっきりと「神功皇后=卑弥呼」と書いてもいいんですよ。現代の私たちから見れば、それは「嘘」なんですが、当時の大和朝廷にとっては日本書紀は「中国向け」に書かれた主張する本だというのが定説です。ならば、引用ではなくて、明言すればいいでしょう。自分たちの正当性を主張するなら引用などというまどろっこしいことをする必要はない。

おそらく、日本書紀は中国向けに書かれた本では無いし、主張する本でも無いんだと思います。
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