四道将軍の派遣

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崇神天皇(十二)四道将軍の派遣(日本書紀)

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原文

九月丙戌朔甲午、以大彦命遣北陸、武渟川別遣東海、吉備津彦遣西道、丹波道主命遣丹波。因以詔之曰「若有不受教者、乃舉兵伐之。」既而共授印綬爲將軍。壬子、大彦命、到於和珥坂上、時有少女、歌之曰、一云、大彦命到山背平坂、時道側有童女歌之曰、

瀰磨紀異利寐胡播揶 飫迺餓鳥塢 志齊務苔 農殊末句志羅珥 比賣那素寐殊望
一云「於朋耆妬庸利 于介伽卑氐 許呂佐務苔 須羅句塢志羅珥 比賣那素寐須望」

現代語訳

(即位10年)9月9日。大彦命(オオビコノミコト=孝元天皇の子で開化天皇の兄)を北陸(クヌガノミチ)に派遣しました。
武渟川別(タケヌナカワワケ=古事記によると大彦命の子)を東海(ウミツミチ)に派遣しました。
吉備津彦(キビツヒコ=彦五十狹芹彦命=孝霊天皇の子で孝元天皇の弟)を西道(ニシノミチ)に派遣しました。
丹波道主命(タニワノチヌシノミコト=開化天皇の子の彦坐王の子で、垂仁天皇の后のヒバスヒメの父)を丹波(タニワ)に派遣しました。
それで崇神天皇は言いました。
「もし、教(ノリ)を受けないものがあれば、すぐに兵を挙げてうて」
4人は印綬(シルシ=官職を受ける印のことで、天皇からの任命の印)を受けて将軍となりました。

9月27日。大彦命(オオビコノミコト)は和珥坂上(ワニサカノウエ=大和国添上郡=奈良県天理市和珥)に到着しました。そのとき少女がいて、歌を歌いました。
ある書では大彦命が山背の平坂(=奈良の北の般若寺坂から木津の間?)に至ったときに、道のほとりに童女(ワラワメ)が居て、歌を詠んだ

御間城入彦(ミマキイリビコ)はや 己が命を
死せむと 窃(ヌス)まく知らぬに
姫遊(ヒメナソ)びすも
歌の訳
ミマキイリビコ(崇神天皇)は自分の命を奪い
殺そうと、つけ狙っているとも知らないで
姫と遊んでばかりだ

ある書によると、
大き戸より 窺(ウカガ)いて
殺さむと すらくを知らに
姫遊すも
歌の訳
大きな戸から殺そうと窺い見ているのも知らないで、姫と遊んでばかりだ
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解説

初期の大和朝廷が家族経営だと分かる
大彦命は崇神天皇から見ると叔父さん。
武渟川別はいとこ。
吉備津彦は祖父の弟。
丹波道主命はいとこの子。

かなりの濃密な家族運営。もちろん事実ならば、の話ではありますが。
タケヌナカワワケの参考:孝元天皇の子孫
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