瑞歯別皇子に木菟宿禰を添えて派遣

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履中天皇(四)瑞歯別皇子に木菟宿禰を添えて派遣

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原文

瑞齒別皇子啓太子曰「大人何憂之甚也。今仲皇子無道、群臣及百姓共惡怨之、復其門下人皆叛爲賊、獨居之無與誰議。臣、雖知其逆、未受太子命之、故獨慷慨之耳。今既被命、豈難於殺仲皇子乎。唯獨懼之、既殺仲皇子、猶且疑臣歟。冀見得忠直者、欲明臣之不欺。」太子則副木菟宿禰而遣焉。爰瑞齒別皇子歎之曰「今太子與仲皇子、並兄也。誰從矣、誰乖矣。然、亡無道就有道、其誰疑我。」則詣于難波、伺仲皇子之消息。

現代語訳

瑞歯別皇子(ミズハワケノミコ)は太子に言いました。
「大人(ウシ=徳のある人=ここでは太子のこと)がどうしてそれほどに憂いているのですか。今、仲皇子は無道(アヅキナシ=道徳の無い状態)で、群臣(マヘツノキミタチ)と百姓(オオミタカラ)は共に仲皇子を憎み恨んでいます。仲皇子の門下の人たちも叛いて太子の賊(アタ=敵)となりました。独りで誰とも話し合ってはいません。仲皇子の臣(オミ=部下)は反逆したことを知っても、太子の命令を受けません。だからわたしは独りで、憤り嘆いているのです。今、命令を承りました。どうして仲皇子を殺すことをはばかりましょうか。ただ恐ろしいのは、仲皇子を殺しても、それでも尚、わたしめを疑われるのではないか?ということです。願わくば、忠実な正しい者を連れて、わたしめが不欺(サダカ=欺かない=誠実)であることを明らかにしたいと思います」
太子は木菟宿禰(ツクノスクネ)を添えて派遣しました。瑞歯別皇子(ミズハワケノミコ)は嘆いて言いました。
「太子と仲皇子は二人とも兄(コノカミ)です。今、誰かに従えば、誰かに背くことになります。道無きを滅ぼし、道有りに就かないと、誰かがわたしを違うことになる」
難波に詣でて、仲皇子の消息を追いました。
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解説

木菟宿禰
応神天皇の記事から登場する名前なのですが、命名の由来が仁徳天皇が生まれた時に仁徳天皇と名前を交換した、という設定になっています。父親である武内宿禰と木菟宿禰の長命の記述がよく似ていることから、創造されたとも言われます。
個人的には「儒教の影響を強く受けた氏族」ではないかと思います。儒教には先祖と子孫は「同一体」という考えがあり、そういう考えが武内宿禰・木菟宿禰の「異常な長命」の理由ではないかと。こういうことを書くと、「いくら儒教といっても、先祖と子孫を完全な同一人物とみなすことは無い」とツッコミが来ると思うのですが、古来の日本にはそのような考えが無かったのですから、「同一体」と考える武内宿禰・木菟宿禰は、他の日本の氏族から見ると「そういう風に映った」でしょう。それが古事記・日本書紀という書物の中で天皇数代にわたる「同一人物」として登場しても不思議ではないでしょう。
神社に逃げる
神社では罪は祓われますし、死穢を払う性質があります。よって命を狙われる人は神社に逃げ込む、というのが古代ではよくあることだったよう。それは履中天皇とて同じだったでしょう。
履中天皇の立場の違い
仁徳天皇(三)倭の屯田は山守のもの?では「吾子籠」と「淡路の海人」は仁徳天皇の味方、だったのに対して、仁徳天皇の子の履中天皇では「履中天皇(三)安曇連浜子の追手。吾子籠は妹を献上」のように、「吾子籠」と「淡路の海人」は敵となっています。

そして履中天皇が石上神宮に逃げたことを考えると、履中天皇は、むしろ当時の主流派では無かった、のではないかと。
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