白鳥御陵(シラトリノミササギ)

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白鳥御陵

投稿日時:2017-12-08 10:43:07
漢字・読みシラトリノミササギ
別名白鳥陵
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白鳥御陵(シラトリノミササギ)

まとめ
●白鳥御陵はヤマトタケルが死後に白鳥となって飛び立って先に作られた陵のこと。厳密には「ヤマトタケルの墓≠白鳥御陵」。
●古事記では「河内国の志幾」。
日本書紀では琴弾原(コトヒキノハラ)・河内・旧市邑(フルイチノムラ)に飛び立った。

物語・由来

伊吹山に上り、そこで神の呪いを受けたヤマトタケルは尾張を抜けヤマトに帰る途中に呪いにより能褒野で死亡。その死んだ亡骸を妻子が葬るのですが、その墓から白鳥が飛び立ち、古事記によれば「河内国の志幾」に飛んでいきます。日本書紀によれば、琴弾原(コトヒキノハラ)・河内・旧市邑(フルイチノムラ)に飛び立ちます。その「飛んだ先」に作られたヤマトタケルの…というか白鳥の御陵が「白鳥御陵」と呼ばれるようになります。つまり、「一つの墓」ではなく、関連するものは白鳥御陵と呼ばれていたことになります。
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白鳥とは

白鳥は魂であり、同時に米の穀物霊(=穀物神)でもあります。日本では魂と神は同一というかほぼ同じものですので、矛盾していません。じゃあ、ヤマトタケルは米の神なのかって話になるんですが、んなわけない。
個人的にはヤマトタケルが東国遠征をした中に「米の栽培の普及」というのが一つのテーマになっていたからではないかなと思っています。大和朝廷は米を基盤にした政権だった。いや、米を価値基準としていた、ってことですかね。米で物の価値を測るようにしていた。米を共通の価値にすることで、貿易・交易がやりやすくなる。当時は通貨がありませんから、価値を統一することがとても有益だったんです。
だからヤマトタケルといえば白鳥というイメージが強かったんじゃないでしょうか。それがヤマトタケル=白鳥御陵となる根本でしょうね。おそらく元々は白鳥とヤマトタケルは関係なくて、神話は別々のものだったのでしょう。
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引用

古事記からの引用
河内国の志幾の白鳥御陵
ヤマトタケルの魂の白鳥は伊勢から飛び立ち、河内国の志幾(シキ)に留まった。
その地にもヤマトタケルの后と御子たちはヤマトタケルの墓を作りました。すの墓は「白鳥御陵(シラトリノミハカ)」と名づけられました。


日本書紀からの引用
景行天皇(四十一)白鳥陵に衣冠を葬る
その時(ヤマトタケルが能褒野陵に葬られたとき)に白鳥(シラトリ)になって、陵(ミサザキ=墓)から出て、倭国(ヤマトノクニ)を目指して飛びました。群臣等(マヘツキミタチ)はその棺櫬(ヒツギ)を開いて見ると、明衣(ミソ=神官の衣服・死装束)だけが空しく残っていて、屍骨(ミカバネ)は無かった。それで使者を派遣して白鳥を追い求めました。
すると倭(ヤマト)の琴弾原(コトヒキノハラ=地名未詳)に留まりました。それでそのところに陵(ミササギ)を造りました。白鳥はさらに飛んで河内(カウチ)に到着して、旧市邑(フルイチノムラ)に留まりました。その土地にまた陵を造りました。それで、その時代の人は、この三つの陵を名付けて白鳥陵(シラトリノミサザキ)といいます。
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