垂仁天皇の治世

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垂仁天皇の治世

漢字・読みスイニンテンノウノチセイ
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原文

かれ、大帯日子淤斯呂和気命(オホタラシヒコオシロワケノミコト)は、天下治らしめしき。御身の長一丈二寸、御脛の長さ四尺一寸なり。次に印色入日子命(イニシキノイリヒコノミコト)は、血沼池(チヌノイケ)を作り、また狭山池(サヤマノイケ)を作り、また日下の高津池と作りたまひき。また鳥取の河上宮(カハカミノミヤ)に坐して、横刀壱仟口を作らしめ、これを石上神宮(イソノカミノカムミヤ)に納め奉り、すなはちその宮に坐して河上部を定めたまひき。

現代文訳

大帯日子淤斯呂和気命(オホタラシヒコオシロワケ=景行天皇)が天下を治めました。背の丈は一丈二寸(=3m)、脛(すね)が四尺一寸(=120cm)。

印色入日子命(イニシキノイリヒコ命=垂仁天皇の皇子)は灌漑用に血沼池狭山池日下の高津池を作りました。また鳥取の河上宮で、刀千本をつくり、石上神宮に奉納しました。

そのままイニシキノイリヒコ命はその宮で河上部を定めました。
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解説

景行天皇は3m
景行天皇の背丈は現在分かっている長さで言えば、背丈3m。ただしこれは現在の尺貫法から言えばの話で、「誇張」かもしれないですが、当時の尺貫法が全然違うのかもしれない。ただ景行天皇が大柄だったと言いたいのでしょう。
池を作る
イニシキノイリヒコ命が池を作り、旱魃対策を行った。刀を作って石上神宮に奉納した。ついでに河上部を定めました。河上部の「部」は大和朝廷の中での「役割」のこと。物部とか忌部とか大伴部とか、役割に「部」で氏族名とするみたいです。
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