神武天皇は実在したか??

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神武天皇は実在したか??

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神武天皇は実在するか? しないか?

神武天皇は実在しない、という意見の方が強いです。かといって実在を否定する証拠は無い……のですが、実在を否定する証拠なんてのは悪魔の証明ですから、求めるのも無理があります。それに実在しても2000年ほど昔のことですから、物証なんてのが少ないからこそ、こうやって古代は謎に満ちているわけです。神武天皇が実在したかしないか?については結論は出ない問題です。
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神武天皇が実在しないとされる根拠

神武天皇の移動の記述にムラがある
日向の国を出発した神武天皇は九州北部の「宇佐の足一騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)」でウサツヒコウサツヒメの歓待を受け、次は「筑紫の岡田宮」で一年滞在。次は「安芸の多祁理宮」で7年。吉備の高島宮に8年、滞在します(古事記では上記年数、日本書紀では違うが、細かくは書いていない)。
参考:アシヒトツアガリ宮で食事

ここまで16年。しかしここからは速吸門・浪速渡・白肩津・血沼海・男水門・竃山、紀伊半島を南下して、上陸、熊野村・那智の滝・吉野・宇陀・忍坂・登美、そして橿原で初代天皇となるわけです。速吸門以降は明確な「期日」は無いのですが、数年も滞在したことは無いので(白肩津以降はナガスネヒコとの戦いなので、数年も滞在するというのは考えにくい)、後半部分は短い期間の物語と思われます。ということは最初の16年はほとんど詳細な物語が無いのに対し、後半には非常に細かい記述・物語があることになります。前半と後半に温度差がありすぎるのです。このムラは何故起こっているのでしょうか?
複数の氏族の成果を一人の人物に集約したのでは?
これを一人の天皇の成果ではなく、複数の武将の成果を後世に再構成したという説があります。大和朝廷が勢力を広げていった過程で様々な氏族の活躍をまとめたということです。ヤマトタケルでもそういう説が根強いです。
壬申の乱を参考にした創作ではないか??
また、熊野村に上陸以降の神武天皇の活躍は壬申の乱を参考にしているという説もあります。壬申の乱は天武天皇が天智天皇の子、大友皇子から政権を奪った、日本では珍しいクーデターの成功例です。また、天武天皇は古事記編纂を命じた天皇ですから、天武天皇と神武天皇を重ね合わせたことは十分あり得ます。
神武天皇には東征以外にはこれといった記述が無い
また初代天皇である神武天皇には東征以外の成果がほとんどありません。これも神武天皇が想像上の人物であるという証拠とも言われます。
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不在説の問題点

複数の氏族の物語の集合体としての『東征』は不在の理由にならない
大和朝廷が勢力を大きくする上での複数の氏族の戦争や活躍が東征の物語に変化していったとして、それが神武天皇が想像上の人物である証拠にはならないのです。「大岡越前」が居ます。大岡越前で有名なエピソードに「二人の母親」というのがあります。
子供が居た。その子供の母だと名乗る女が二人も現れる。この女のどちらかが本物の母親で、どちらかが嘘をついている。大岡越前はこのどちらかを本物の母と裁かなくてはいけない。そこで、子供の両手をそれぞれの女に持たせ、引っ張らせる。引っ張り合いに勝った方が母親だと大岡越前は告げた。いざ、引っ張り合いが始まり、子供が痛いと泣いたら、一方の母親が手を離してしまった。大岡越前は、母心からつい手を離してしまった方を母親と認定した。

というもの。
このお話、大岡越前の物語とされていますが、実は旧約聖書に載っているソロモン王のストーリーと同じです。実は長崎の教会で演じられたものをパクったのだろうと言われています。では、大岡越前は実在しない人物か? そんなことは無いでしょう。大岡越前は実在した人物です。むしろ大岡越前という有名人が居て、その「偉さ」をもり立てるためにくっついた訳です。大岡越前の評判があってこその、ソロモン王のエピソードが取り込まれたのです。

つまり神武天皇の偉大さがあり、そこに複数の氏族に伝わっていた活躍が吸収された、ということも十分にありえます。仮に東征の物語の幾らか(もしくは仮に全て)が神武天皇の成果ではなかったとしても、神武天皇が実在しなかった理由にはなりません。それとこれとは関係ないのです。だから、神武東征が他氏族の活躍の集合体だとしても、神武天皇が実在しない証拠にはならないわけです。
そもそも神武天皇は小物
記紀では天と地と海の子孫として描かれているので神武天皇は最初から大人物だったかのように錯覚しがちですが、冷静に考えると神武天皇は天皇家の創始者であっても、存命の時は一地方の弱小国王に過ぎません。その神武天皇が機内に小さな国を建てたというだけの話です。子孫が「天皇」と呼ばれ、日本を牛耳るようになったから、モリモリに話が盛られているだけです。
神武天皇の成果が東征しかない理由
神武天皇は建国者であっても、元々は小さな国の氏族でした。しかも当時の日本には文字も無く、後世に歴史を残すという感覚もありませんでした。だから神武天皇は偉大な建国者ではあるのですが、詳細な政治成果は残せなかった。ただそれだけでしょう。

実際の神武天皇はこんな感じ

東征の前半16年と後半の戦争で記述の仔細の度合いが全然違うとしても、それはこう考えれば合点がいきます。
日向の小さな一氏族だったイワレビコ一家。しかし、このまま日向ではやっていけない、これでは卯建(ウダツ)が上がらない。そこで妻子ある身ではありますが、イワレビコは日向を出て、九州北部へと居を移しました。宇佐や筑紫で過ごしましたが、やはりここでも、厳しい。そこで安芸(広島)や吉備(岡山)に行きました。ここでは仕事があった。おそらくは海運業です。ここで居を構え、力を蓄えます。人(兵)も集まって来ました。ここで一生を終えるのもいいが、やはり男としては一国の王となりたい。そこで、また東を目指しました。機内に良い土地があるので、そこを狙ったが、すでにナガスネヒコという支配者が居た。これに1度は破れたものの、ナガスネヒコ内部に寝返るものも出て、やっと勝利出来、ついにイワレビコは一国の王になりました。めでたしめでたし。

つまり九州・中国地方の滞在は別に、支配地を広げたということではないだろうよ、そうとは限らないよね。ということです。何故かというと、かつてのヤマト朝廷とは伊勢から出雲までのことだったからです。もしも東征が文字通り、九州から中国地方、機内へと勢力を広げる物語だとすると、矛盾します。九州・中国地方の滞在は、あくまで通った道のことでしょう。もちろんこれは私見ですが、無茶苦茶な私見ではないはずです。

壬申の乱の影響ってある?
壬申の乱の影響が無いとはいいませんが、記紀の後半の歴史書ばりの記述と、神武天皇の東征でのファンタジーな物語は、似ても似つかぬ性質があります。多少の参考はあっても、重ね合わせたというのは、ちょっと無理があるんじゃないか?と思うのですよね。
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