綏靖天皇(四)婚姻と系譜

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綏靖天皇(四)婚姻と系譜

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原文

元年春正月壬申朔己卯、神渟名川耳尊、卽天皇位。都葛城、是謂高丘宮。尊皇后曰皇太后。是年也、太歲庚辰。

二年春正月、立五十鈴依媛爲皇后。一書云、磯城縣主女川派媛。一書云、春日縣主大日諸女絲織媛也。卽天皇之姨也、后生磯城津彦玉手看天皇

四年夏四月、神八井耳命薨。卽葬于畝傍山北。

廿五年春正月壬午朔戊子、立皇子磯城津彦玉手看尊、爲皇太子。

卅三年夏五月、天皇不豫。癸酉、崩。時年八十四。

現代語訳

綏靖天皇が即位した元年の春1月8日。
神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)は皇位を継ぎました。葛城に都を作りました。それが高丘宮(タカオカノミヤ)といいます。皇后(=神武天皇の皇后の媛蹈韛五十鈴媛命のこと)を尊び、皇太后(オオキサキ)と呼ぶようになりました。この年は太歲庚辰です。

即位2年の春1月に五十鈴依媛(イスズヨリヒメ)を皇后としました。
ある書によると磯城縣主(シキノアガタヌシ)の娘の川派媛(カワマタヒメ)とも言われます。
またある書によると春日縣主大日諸(カスガノアガタヌシノオオヒモロ)の娘の絲織媛(イトリヒメ)とも言われます。

五十鈴依媛(イスズヨリヒメ)は綏靖天皇から見ると姨(ミオバ=叔母)になります。后(キサキ)は磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)を生みました。

即位四年の夏四月に神八井耳命(カムヤイミミミコト綏靖天皇の兄)が崩(カムアガリ=神になって天に昇る…死ぬこと)となりました。畝傍山(ウネビヤマ)の北に葬りました。

即位25年の春1月の7日。
皇子の磯城津彦玉手看尊(シキツヒコタマテミノミコト)を皇太子(ヒツギノミコ=次の天皇候補)にしました。

即位33年の夏5月に天皇は不豫(コトヤマヒ…病気)になりました。崩御されました。そのとき84歳でした。
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解説

ウガヤフキアエズと同じ婚姻パターン
山幸彦が豊玉姫(トヨタマヒメ)と結婚し、その子供の「ウガヤフキアエズ」が、豊玉姫(トヨタマヒメ)の妹の「玉依姫(タマヨリヒメ)」と結婚するのとほぼ同じパターン。

豊玉姫と玉依姫が「海神」の娘であるのに対して、媛蹈韛五十鈴媛命と五十鈴依媛は事代主の娘です。事代主は出雲のオオクニヌシの子供で、オオクニヌシが冥界へと消えた今となっては、出雲を率いるリーダーです。また事代主は名前から推察するに、神の言葉を受ける神職の神格化です。
わたしは、この婚姻は大和朝廷が高天原の「天」、海神の「海」、そして出雲の「宗教・祭祀」を受け継いだ証の神話ではないか?と思っています。また媛蹈韛五十鈴媛命と五十鈴依媛の名前から「鉄器」がイメージ出来ます。鉄器は出雲が本場でしたから、「宗教・祭祀」に「鉄器」も入るかもしれません。
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