仁徳天皇(四)ちはや人 菟道の渡りに 棹取りに

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仁徳天皇(四)ちはや人 菟道の渡りに 棹取りに

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現代語訳

大山守皇子(オオヤマモリノミコ)は常日頃から、先帝(=応神天皇)から捨てられ皇太子に立てられなかったことを恨んでいました。その上、重ねて、この一件での恨みがありました。それで謀(ハカリゴト)をして言いました。
「私は太子(=ここでは菟道稚郎子)を殺して、帝位に登ろうと思う」
大鷦鷯尊(オオサザキノミコト)はあらかじめ、その謀議を聞いて、密かに太子に報告して兵を備えて守らせました。その時、太子は兵を配置して待ちました。大山守皇子はその兵が備えてるとも知らないで、数百の兵士を率いて、夜中に出発しました。朝になり菟道(ウジ)に到着して、河を渡ろうとしました。そのとき太子は布の服を着て、舵をとって、密かに渡し守りに混じって、大山守皇子を船に乗せて渡しました。河中に至り、渡し守に命じて船を踏んでひっくり返しました。それで大山守皇子は河に落ちました。河に浮いて流れていき、歌を歌いました。
ちはや人 菟道の渡りに 棹(サオ)取りに 速けむ人し 我が対手(モコ)に来む
歌の訳(「ちはや人」は菟道にかかる枕詞)菟道の河の渡りの棹さばきの速い人(=船を操るのがうまい人って意味)。わたしのところに来ておくれ。

しかし伏兵(カクレタルツワモノ=隠れた兵士)が沢山あらわれて、岸に着くことができませんでした。遂には沈んで死んでしまいました。その屍(カバネ=遺体)を探し求めていると、
考羅(カワラ=山城国綴喜郡河原村=現在の京都府綴喜郡田辺町河原)の渡りに浮いて出ました。そのとき太子はその屍を見て、歌を歌いました。
ちはや人 菟道の渡りに 渡り手に 立てる 梓弓檀(アズサユミマユミ) い伐らむと 心は思へど い取らむと 心は思へど 本へ(本方・本辺・本枝)は 君を思ひ出 末辺(末枝)は 妹を思ひ出 苛(イラ)なけく そこに思ひ出 愛しけく ここに思ひ い伐らずそ来る 梓弓檀
歌の訳(「ちはや人」は菟道の枕詞)菟道の渡りで、渡り場に立っている弓を作る梓の木。切ってしまおうと心は思っているが、取ってしまえと心には思っているが、木の根元を見ては君を思い出し、木の末の枝を見ては妹(妻)を思い出し、そこに悲しい思い出があり、ここに愛しい思い出があって、切らずに帰ってしまったよ。弓を作る梓の木よ。

それで大山守皇子を那羅山(ナラヤマ=奈良県法蓮町境目谷?)に葬りました。
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解説

ほぼ古事記と同じ
ただし古事記の方が要素が多い。
●菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)は舎人に自分に似せた服を着せて陣に座らせた上で、自分は船頭に化けて、大山守命を転覆させています。
●大山守命が乗る船にサネカズラの根の汁を塗っておいて滑りやすくしていました。
●菟道稚郎子と大山守命の間に「大猪を狩る」という会話があります。「狩り」は誓約(ウケイ)で行うもので、戦争前に「戦争がうまくいくかなぁ」と狩りをして大物が取れたら戦争に勝つ、という占いですね。
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原文

然後、大山守皇子、毎恨先帝廢之非立而重有是怨、則謀之曰「我殺太子、遂登帝位。」爰大鷦鷯尊、預聞其謀、密告太子備兵令守、時太子設兵待之。大山守皇子、不知其備兵、獨領數百兵士、夜半發而行之。會明、詣菟道將渡河、時太子服布袍取檝櫓、密接度子、以載大山守皇子而濟、至于河中、誂度子蹈船而傾。於是大山守皇子、墮河而沒、更浮流之歌曰、

知破揶臂苔 于旎能和多利珥 佐烏刀利珥 破揶鶏務臂苔辭 和餓毛胡珥虛務

然伏兵多起、不得著岸、遂沈而死焉。令求其屍、泛於考羅濟。時太子視其屍、歌之曰、

智破揶臂等 于旎能和多利珥 和多利涅珥 多氐屢 阿豆瑳由瀰摩由彌 伊枳羅牟苔 虛々呂破望閉耐 伊斗羅牟苔 虛々呂破望閉耐 望苔弊破 枳瀰烏於望臂涅 須慧弊破 伊暮烏於望比涅 伊羅那鶏區 曾虛珥於望比 伽那志鶏區 虛々珥於望臂 伊枳羅儒層區屢 阿豆瑳由瀰摩由瀰

乃葬于那羅山。
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