大久米命・大来目(オオクメノ命)

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オオクメ

漢字・読み大久米命・大来目
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大久米命・大来目(オオクメノ命)

古事記では大久米命(オオクメノ命)。
日本書紀では大來目(オオクメ・大来目)。
ただし、同じニュアンスの「来目部(クメラ・クメベ)」「来目部」という表記は日本書紀に見られます。

「大」という文字は、大集団としての「大」だと言われています。例えば、現代で言えば、「AKB」と言った場合はあの人たちですが、「AKBグループ」と表記した場合は、AKB・ SKE・ HKT・乃木坂・欅坂といった関連グループ全体を指しますよね。大久米命の「大」はそういう意味じゃないか?とも言われます。単に「Great」という修飾語かもしれませんけどね。
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物語・由来

以下の引用を読むと、大久米命は、神武東征で先頭に立って行動し、敵を打ち倒し、なおかつ、神武天皇の皇后となる「イスケヨリヒメ」を紹介したことになっています。またエウカシを打ち倒した時に歌った「久米歌」は大久米命…久米氏の歌謡だったとされています。
久米氏は武人の集団とも、料理人の集団とも。
天津久米命の子孫
そうとは書かれていないのですが、ニニギとともに降臨した天津久米命(アマツクメ命)の子孫と思われます。
大伴氏との関係
日本書紀では大伴連の祖先の天忍日命(アメノオシヒ命)が「來目部(クメベ)の遠い祖先の天槵津大來目(アマノクシツノオオクメ)」を率いてニニギとともに降臨したと書いてあったり、「大伴氏(オオトモノウジ)の祖先の日臣命(ヒオミノミコト)は大來目(オオクメ)を率いて」とあるので、久米氏は大伴氏の部下だったのでは無いかと言われていますが、古事記では同格に描かれています。
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古事記からの引用

道臣命と大久米命
大伴連(オオトモノムラジ)の祖先の道臣命(ミチノオミノ命)と久米直(クメノアタイ)の祖先の大久米命(オオクメノ命)の二人が兄宇迦斯(エウカシ)を呼びつけて罵りました。

イワレビコの女性関係
ですがイワレビコ命が更に皇后として美しい女性を探していると、大久米命(オオクメノミコト)が言いました。
「ここに良い少女がいます。
少女は神の御子といわれています。
神の御子といわれる理由は……」

イスケヨリヒメと7人の少女
七媛女(ナナヲトメ=7人の少女)が、高佐士野(タカサジノ)に遊びにいきました。
その7人の少女の仲に伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)がいました。
そのとき大久米命(オオクメ命)が伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)を見て、歌で神武天皇に申し上げました。
「大和の高佐士野を行く、7人の少女たちよ
誰を妻にしようか」
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日本書紀からの引用

六月乙未朔丁巳(三)ヤタノカラスと日臣と道臣
この時、大伴氏(オオトモノウジ)の祖先の日臣命(ヒオミノミコト)は大來目(オオクメ)を率いて、元戎(オオツワモノ)督將(イクサノキミ=将軍の意味)として、山を踏み開いて進み、鳥(=ヤタノカラス)の向かう所を探し、見上げて追いかけました。

冬十月癸巳朔(二)道臣命の密命と歌
そこで密かに道臣命(ミチノオミノミコト)に命じました。
「お前は大來目部(オオクメラ)を引き連れて、大室(オオムロ)を忍坂邑(オシサカノムラ)に作り、そこで宴饗(トヨノアカリ=宴会のこと)を盛大に催して、敵を誘い寄せて討ち取れ」

冬十月癸巳朔(三)來目部の勝利の歌
今でも來目部(クメラ)が歌ったあとに大きく笑うのは、このためです。また歌を歌いました。

辛酉年春正月庚辰朔 神武天皇が帝位に
初めて天皇は天基(アマツヒツギ=天津日嗣=皇統)をはじめた日に大伴氏の遠祖の道臣命(ミチノオミノミコト)が、大來目部(オオクメラ)を率いて、密かに命じられて、諷歌倒語(ソヘウタ・サカシマゴト)を行って、妖気(ワザワイ)を祓いました。倒語(サカシマゴト)を使ったのはこれが初めてでした。

二年春二月甲辰朔乙巳 定功行賞
大來目(オオクメ)には畝傍山(ウネビヤマ)の西の川原の土地に住まわせました。それで今、そこ土地を來目邑(クメノムラ)と呼ぶのはそのためです。

雄略天皇(十)池津媛と石川楯の姦淫と蓋鹵王
天皇は怒って、大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)に詔(ミコトノリ)して、来目部(クメベ)を派遣して、夫婦の両手足を木に張って、假庪(サズキ=桟敷=出し物の舞台)に置いて、火で焼き殺しました。
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