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大倭根子日子賦斗邇命
漢字・読み | オオヤマトネコヒコフトニノミコト |
大倭根子日子賦斗邇命(オオヤマトネコヒコフトニノミコト)
孝霊天皇(7代天皇)のこと。
記述
古事記での表記は大倭根子日子賦斗邇命(オオヤマトネコヒコフトニノミコト)。
日本書紀では大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)。
名前はほぼ同じ。
まとめ
父親は孝安天皇(6代天皇)。母親は忍鹿比売命(日本書紀では押媛)。
宮は黒田の廬戸宮(イホトノミヤ)。日本書紀も古事記も同じ。漢字も一緒。
古事記では兄に大吉備諸進命(オオキビモロススメノミコト)があるが、日本書紀にはいない。
古事記によれば106歳で崩御。片岡の馬坂(ウマサカ)に葬られている。
日本書紀では即位76年に崩御。片丘馬坂陵(カタオカノウマサカノミササギ)に葬られている。
記述
古事記での表記は大倭根子日子賦斗邇命(オオヤマトネコヒコフトニノミコト)。
日本書紀では大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)。
名前はほぼ同じ。
まとめ
父親は孝安天皇(6代天皇)。母親は忍鹿比売命(日本書紀では押媛)。
宮は黒田の廬戸宮(イホトノミヤ)。日本書紀も古事記も同じ。漢字も一緒。
古事記では兄に大吉備諸進命(オオキビモロススメノミコト)があるが、日本書紀にはいない。
古事記によれば106歳で崩御。片岡の馬坂(ウマサカ)に葬られている。
日本書紀では即位76年に崩御。片丘馬坂陵(カタオカノウマサカノミササギ)に葬られている。
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出自
古事記では
父孝安天皇
母忍鹿比売命(オシカヒメ)
日本書紀では
父孝安天皇
母押媛(オシヒメ)…異説では磯城縣主葉江(シキノアガタヌシハエ)の娘の長媛(ナガヒメ)・十市縣主五十坂彦(トオチノアガタヌシイサカヒコの娘の五十坂媛(イサカヒメ)
父孝安天皇
母忍鹿比売命(オシカヒメ)
日本書紀では
父孝安天皇
母押媛(オシヒメ)…異説では磯城縣主葉江(シキノアガタヌシハエ)の娘の長媛(ナガヒメ)・十市縣主五十坂彦(トオチノアガタヌシイサカヒコの娘の五十坂媛(イサカヒメ)
大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)=孝霊天皇
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古事記での后と子供
細比売命(クハシヒメ)
春日千々速真若比売(カスガノチチハヤマワカヒメ)
意富夜麻登玖邇阿礼比売(オオヤマトクニアレヒメ)
蝿伊呂杼(ハエイロド)
●大倭根子日子国玖琉命(オオヤマトネコヒコクニクルノミコト)
春日千々速真若比売(カスガノチチハヤマワカヒメ)
●千々速比売命(チチハヤヒメ
意富夜麻登玖邇阿礼比売(オオヤマトクニアレヒメ)
●夜麻登登母母曽毘売命(ヤマトトモモソヒメノミコト)
●日子刺肩別命(ヒコサシカタワケノミコト)
●比古伊佐勢理毘古命(ヒコイサセリビコノミコト)…別名:大吉備津日子命(オオキビツヒコノミコト)
●倭飛羽矢若屋比売(ヤマトトビハヤワカヤヒメ)
●日子刺肩別命(ヒコサシカタワケノミコト)
●比古伊佐勢理毘古命(ヒコイサセリビコノミコト)…別名:大吉備津日子命(オオキビツヒコノミコト)
●倭飛羽矢若屋比売(ヤマトトビハヤワカヤヒメ)
蝿伊呂杼(ハエイロド)
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日本書紀での后と子供
細媛命(ホソヒメノミコト)
倭国香媛(ヤマトノクニカヒメ…別名を絚某姉【ハヘイロネ】)
別の妃
●大日本根子彦国牽天皇(オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト=孝元天皇)
倭国香媛(ヤマトノクニカヒメ…別名を絚某姉【ハヘイロネ】)
別の妃
●生彦狹嶋命(ヒコサシマノミコト)
●稚武彦命(ワカタケヒコノミコト)
●稚武彦命(ワカタケヒコノミコト)
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個人的コラム
后がたくさんいて(古事記で四人、日本書紀では三人)、子供も大量にいる。まず、特筆すべきは「初めて、皇女が生まれていること」だと思います。神武天皇から孝安天皇までは男子しか生まれていないのに、初めて皇女が生まれていて、その最初に生まれた皇女が「倭迹々日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)」です。箸墓古墳の主ではないかと言われ、卑弥呼と同一人物ではないかとも言われ、この後、物語に強く関わってくる皇女です。
問題の一つは「なぜこれまで皇女を書いてなかったか?」です。
実際に女の子が生まれていなかったのかも知れません。でも、6代もの間、娘が一人も生まれない、なんてことあるんでしょうか。ゼロとは言えませんが、生まれてなかったとは思えない。
もちろん実際には居たが書かなかっただけかもしれません。
では、なんで孝霊天皇のところから急に書いたのか? 孝霊天皇から皇女の記録が…口伝で…あったということでしょう。仮に口伝が孝霊天皇からあったということは、孝霊天皇の時代から皇女の評価が高くなったということになります。そんなことありますかね?
私は孝霊天皇の時代に「女系→男系」に転換したのではないかと思います。
神武天皇ーイスケヨリヒメ以降、大和は女系だった。だから女が生まれたら、妻側の人間としてあちら側に引き取られた。男が生まれた時だけ、天皇家となった。本流は嫁側で、男が傍流だった。ところが孝霊天皇で男系に切り替わったのではないかと。男系になったことで、娘も皇統に名を連ねることになった。それで皇女の名前が残るようになった。男系にしたのは、男系の方が安定しているからです。女系だと途絶えやすいのです。
問題の一つは「なぜこれまで皇女を書いてなかったか?」です。
実際に女の子が生まれていなかったのかも知れません。でも、6代もの間、娘が一人も生まれない、なんてことあるんでしょうか。ゼロとは言えませんが、生まれてなかったとは思えない。
もちろん実際には居たが書かなかっただけかもしれません。
では、なんで孝霊天皇のところから急に書いたのか? 孝霊天皇から皇女の記録が…口伝で…あったということでしょう。仮に口伝が孝霊天皇からあったということは、孝霊天皇の時代から皇女の評価が高くなったということになります。そんなことありますかね?
私は孝霊天皇の時代に「女系→男系」に転換したのではないかと思います。
神武天皇ーイスケヨリヒメ以降、大和は女系だった。だから女が生まれたら、妻側の人間としてあちら側に引き取られた。男が生まれた時だけ、天皇家となった。本流は嫁側で、男が傍流だった。ところが孝霊天皇で男系に切り替わったのではないかと。男系になったことで、娘も皇統に名を連ねることになった。それで皇女の名前が残るようになった。男系にしたのは、男系の方が安定しているからです。女系だと途絶えやすいのです。
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引用
古事記からの引用
孝安天皇
孝霊天皇
日本書紀からの引用
孝安天皇(日本書紀)
孝霊天皇(日本書紀)
生まれた子供と皇后の詳細は孝霊天皇と孝霊天皇(日本書紀)を見てください。
孝安天皇
孝安天皇が姪の忍鹿比売命(オシカヒメ=先代孝昭天皇の子の天押帯日子命の娘)を娶って産んだ子供が大吉備諸進命(オオキビモロススメノミコト)、大倭根子日子賦斗邇命(オオヤマトネコヒコフトニノミコト=孝霊天皇)の二柱です。
大倭根子日子賦斗邇命(オオヤマトネコヒコフトニノミコト=孝霊天皇)は天下を治めました。
大倭根子日子賦斗邇命(オオヤマトネコヒコフトニノミコト=孝霊天皇)は天下を治めました。
孝霊天皇
大倭根子日子賦斗邇命(オオヤマトネコヒオフトニノミコト=孝霊天皇)は黒田の廬戸宮(イホトノミヤ)で天下を治めました。
日本書紀からの引用
孝安天皇(日本書紀)
即位26年の春2月14日。姪(ミメ)の押媛(オシヒメ)を皇后にしました。
后は大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト=孝霊天皇)を生みました。
后は大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト=孝霊天皇)を生みました。
孝霊天皇(日本書紀)
大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト=孝霊天皇)は日本足彦国押人天皇(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノスメラミコト=孝安天皇)の太子(ヒツギノミコ=嫡男)です。母は押媛(オシヒメ)といいます。思うに天足彦国押人命(アメタラシヒコクニオシヒトノミコト=孝昭天皇の子で孝安天皇の兄)の娘だろうか。
生まれた子供と皇后の詳細は孝霊天皇と孝霊天皇(日本書紀)を見てください。
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