弟橘比売命(オトタチバナヒメノミコト)

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弟橘比売命

投稿日時:2017-11-05 19:45:25
漢字・読みオトタチバナヒメノミコト
別名弟橘媛
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弟橘比売命(オトタチバナヒメノミコト)

まとめ
ヤマトタケルの妃の一人。
若建王(稚武彦王)の母親。
ヤマトタケルの東征で走水海(馳水)に差し掛かると船が立ち往生したので、弟橘比売命が生贄となって海の神の怒りを鎮めて海を渡った…つまり弟橘比売命は東征の立役者。

物語・由来

弟橘比売命(オトタチバナヒメノミコト)は古事記に登場する人物名。日本書紀では弟橘媛(オトタチバナヒメ)。記紀ともにヤマトタケルの妃で、ヤマトタケルとの間に若建王日本書紀では稚武彦王)を生んでいる。

古事記では弟橘比売命の出自については記述がないが、日本書紀には「穂積氏忍山宿禰(ホヅミノウジノオシヤマノスクネ)」とある。

古事記では東国遠征に行ったヤマトタケルに同行し、海の神に邪魔されて、走水海(馳水)で立ち往生したときに海に身を捧げてヤマトタケルの東征を助けて死んだ。
若建王を産んだのは、ヤマトタケルが走水海にたどり着く以前ということになる。
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出自と子孫

出自
日本書紀によれば
穂積氏忍山宿禰
配偶者記述なし
弟橘媛…ヤマトタケルの妃になり、走水海で海に身を投げる。


配偶者と子孫
古事記によると
ヤマトタケル(=小碓)
弟橘比売命
若建王

日本書紀によると
ヤマトタケル(=小碓)
弟橘比売命
稚武彦王

引用

古事記からの引用
弟橘比売命の入水
そこで后の弟橘比売命(オトタチバナヒメノミコト)が
「わたしが皇子(=ヤマトタケル)の代わりに海に身を投げましょう。皇子は東国を平定するという任務をどうか成し遂げて、大和にお帰りください」
と言いました。
弟橘比売命は海に入るときに、菅畳・皮畳・絹畳を重ねて波の上に敷き、その上に乗りました。

弟橘比売命の歌
弟橘比売命が畳のイカダに乗ると、荒波は穏やかになって、ヤマトタケルの船は進むことが出来た。
そのとき弟橘比売命が歌った歌が
さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中(ホナカ)に立ちて 問ひし君はも
それから七日後。
弟橘比売命の櫛が海岸に流れ着きました。
ヤマトタケルはその櫛を手にとって、墓を作りました。

ヤマトタケルの子孫・系譜
また海に身を投げてヤマトタケルを救った弟橘比売命(オトタチバナヒメ)を娶って生んだ子が若建王(ワカタケル)です。

日本書紀からの引用
景行天皇(三十三)馳水の地名説話
すぐに海中(ワタナカ=海の沖の方)へと到着すると、暴風(アラキカゼ)がたちまち起き、王船(ミフネ)は漂い渡れませんでした。そのときに王に従う妾(オミナ)がいました。弟橘媛(オトタチバナヒメ)といいます。穂積氏忍山宿禰(ホヅミノウジノオシヤマノスクネ)の女(ムスメ)です。(弟橘媛が)王(=ヤマトタケル)に言いました。
「今、風邪が起き波が速くて、王船(ミフネ)が沈みそうになっています。これは必ず、海神(ワダツミ)の心(シワザ)です。願わくは賤(イヤ)しい妾(ヤッコ=私)の身を王の命に代えて海に入りましょう」
言葉が終わり、すぐに波を押し分けて入りました。暴風はすぐに泊まりました。船は岸に着きました。それでその時代の人はその海を馳水(ハシルミズ=現在の東京湾の浦賀水道)と呼んでいました。

景行天皇(三十六)東国の地名説話
日本武尊は毎日、弟橘媛(オトタチバナヒメ)を偲ぶ心がありました。それで碓日嶺(ウスヒノミネ)に登って、東南(タツミノカタ)を見て、三回嘆いて言いました。
「吾嬬はや(アズマハヤ)」
それで山の東の諸国を「吾嬬国(アズマノクニ)」といいます。

景行天皇(四十五)日本武尊の妃と子女
次の妃の穗積氏忍山宿禰(ホヅミノウジノオシヤマノスクネ)の娘の弟橘媛(オトタチバナヒメ)は稚武彦王(ワカタケヒコノミコ)を生みました。
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