若帯日子命(ワカタラシヒコノミコト=成務天皇)

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若帯日子命

投稿日時:2017-08-31 10:35:56
漢字・読みワカタラシヒコノミコト
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若帯日子命

若帯日子命(ワカタラシヒコノミコト=若帯日子天皇)は古事記に登場する人物名。成務天皇(13代)のこと。父親は景行天皇(12代)。ヤマトタケルとは兄弟になる。
日本書紀では稚足彦天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト
年齢
古事記では95歳、
日本書紀では即位60年夏6月11日107歳で、崩御。
おまけ日本書紀によると成務天皇は武内宿禰と誕生日が同じ。


古事記では沙紀(サキ)の多他那美(タタナミ)。
古事記では倭国(ヤマトノクニ)の狹城盾列陵(サキノタタナミノミサザキ)。

古事記では近淡海(チカツアフミ)の志賀(シガ)の高穴穂宮(タカアナホノミヤ)。
日本書紀には成務天皇の宮の記述はないが、景行天皇が行幸し崩御した「高穴穂宮」という記述があり、古事記と一致する。
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物語・由来

事績
成務天皇の記述はやたらと少ないが、政治的にやったことは意味が大きい。国郡・県邑を定め、造長(クニノミヤツコ)・稲置(イナキ)を任命して、郡県の境目を設定した。東西を日縦(ヒノタタシ)とし、南北を日横(ヒヨコ)とし。山の南を影面(カゲトモ)、山の北を背面(ソトモ)と設定しました。影面・背面は日当たりによって収穫が変わるので、税負担を変えたようです。
つまり、国家の基礎を制定したのが成務天皇です。地味だけど、実はかなり重要なことです。
また、郡県のトップを任命するのに「盾矛」を印として渡したとあるので、大和朝廷が地方の首長の任命権を「握った」ということになります。どー考えても成務天皇の時代に大和朝廷の基礎ができたと考えるべきなんですよね。でも、成務天皇の記述がやたらと少ない。
何故なんでしょうか。
個人的には成務天皇はヤマトタケルなんじゃないか??と疑ってます。

名前で考える
ワカタラシという名前は特殊な名前ではなく、似たような名前の皇族は見られる。記述の少なさ、名前の簡素さ、色々と曖昧なことがあるのを考えると「実在していない」という説が根強い。
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出自

古事記によると
景行天皇
八尺之入日売命
若帯日子命(ワカタラシヒコ)…成務天皇
五百木之入日子命(イホキノイリヒコ)…尾張連の祖先に建伊那陀宿禰の娘の志理都紀斗売を娶って、品陀真若王を有無。品陀真若王応神天皇の3人の妃の親。
押別命(オシワケ)
五百木之入日売命(イホキノイリヒメ)


日本書紀によると
景行天皇
八坂入媛
稚足彦天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト=成務天皇
五百城入彦皇子(イホキイリビコノミコ)
忍之別皇子(オシノワケノミコ)
稚倭根子皇子(ワカヤマトネコノミコ)…異伝では景行天皇と播磨稻日大郎姫の子供…ヤマトタケルの弟として書かれている。
大酢別皇子(オオスワケノミコ)
渟熨斗皇女(ヌノシノヒメミコ)
渟名城皇女(ヌナキノヒメミコ)
五百城入姫皇女(イホキイリビメノミコ)
麛依姫皇女(カゴヨリヒメノヒメミコ)
五十狹城入彦皇子(イサキイリビコノミコ)
吉備兄彦皇子(キビノエヒコノミコ)
高城入姫皇女(タカキイリビメノヒメミコ)応神天皇の妃に
弟姫皇女(オトヒメノヒメミコ)応神天皇の妃に
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婚姻と子孫

古事記によると
成務天皇(若帯日子命)
弟財郎女(オトタカラノイラツメ)…穂積臣等の祖の建忍山垂根(タケオシヤマタリネ)の娘
和訶奴気王(ワカヌケノミコ)

日本書紀には子孫の記述がない。

古事記からの引用

景行天皇の皇后と皇子
また八尺入日子命(ヤサカノイリヒコ=崇神天皇の皇子の八坂之入日子命)の娘の八尺之入日売命(ヤサカノイリヒメ)を娶って生んだ子供が
若帯日子命(ワカタラシヒコ)
五百木之入日子命(イホキノイリヒコ)
押別命(オシワケ)
五百木之入日売命(イホキノイリヒメ)
です。

景行天皇の皇太子
その中のうち、若帯日子命(ワカタラシヒコ)と倭建命(ヤマトタケル)と五百木之入日子命(イオキノイリヒコ)、この三王は皇太子です。

若帯日子天皇は天下を治める
若帯日子天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト)、近淡海(チカツアフミ)の志賀(シガ)の高穴穂宮(タカアナホノミヤ)に坐して天の下治らしめしき。この天皇、穂積臣(ホヅミノオミ)等の祖 建忍山垂根(タケオシヤマタリネ)の女、名は弟財郎女(オトタカラノイラツメ)を娶して生みましし御子、和訶奴気王(ワカヌケノミコ)。一柱。
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日本書紀からの引用

景行天皇(五)妃達とその皇子と皇女
八坂入媛は7人の男の子と6人の女の子を生みました。
第一子は稚足彦天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト=成務天皇)
第二子は五百城入彦皇子(イホキイリビコノミコ)
第三子は忍之別皇子(オシノワケノミコ)

景行天皇(四十二)宴会に参加しない稚足彦尊と武内宿禰
即位51年春1月7日。群卿(マヘツノキミタチ)を呼び寄せて宴会を開いて数日が経ちました。そのとき、皇子の稚足彦尊(ワカタラシヒコノミコト=成務天皇)・武内宿禰(タケノウチノスクネ)が宴会の庭に参加しませんでした。

景行天皇(四十三)棟梁之臣
(即位51年)秋8月4日。
稚足彦尊(ワカタラシヒコノミコト)を立てて皇太子としました。この日に武内宿禰(タケノウチノスクネ)に命じて棟梁之臣(ムネハリノマヘツキミ)としました。

成務天皇(一)立太子と即位
稚足彦天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト=成務天皇)は大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト=景行天皇)の第四子です。母の皇后は八坂入姫命(ヤサカノイリビメノミコト)です。八坂入彦皇子(ヤサカノイリビコノミコ=崇神天皇の皇子)の娘です。大足彦天皇(オオタラシヒコノスメラミコト=景行天皇)の即位46年に立太子しました。年は24歳でした。

仲哀天皇(一)立太子と出自
稚足彦天皇(ワカタラシスメラミコト=成務天皇)の即位48年に立太子しました。このとき31歳でした。稚足彦天皇(ワカタラシスメラミコト=成務天皇)は男(ヒコミコ)は居ませんでした。それで後継者としました。
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