オウス

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オウス

漢字・読み小碓命・小碓尊・小碓王
別名倭男具那命(ヤマトオグナ)・倭建御子(ヤマトタケルノミコ)・日本武尊(ヤマトタケルノミコト)・日本童男(ヤマトオグナ)・日本武皇子(ヤマトタケルノミコ)
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概要

まとめ
景行天皇の子。
●古事記では母は針間之伊那毘大郎女(ハリマノイナビノオオイラツメ)。日本書紀では母は播磨稻日大郎姫(ハリマノイナビノオオイラツメ)。
ヤマトタケルの幼名。
●クマソタケルの殺害後に改名。
日本書紀では出産時に、臼が関わっている。

物語・由来

子供の頃の名前がオウス。古事記では語られませんが、日本書紀では出産ん時に臼が出ていることが名前に関係しています。

古事記では、九州熊襲を退治するまでは「オウス」と名乗ります。日本書紀では「大和童男(ヤマトオグナ)」や「日本武尊」で登場するので「オウス」は生まれたばかりの時だけの登場です。

叔母のヤマトヒメから衣装を受け取り、女装して熊襲の宴会に紛れ込み、クマソタケル(日本書紀では川上梟師)を殺害します。

九州で熊襲梟師(クマソタケル)を退治して、名前を受け取りヤマトタケルになるまではオウスですので、ここで引用している物語はそこまでとしています。
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その他コラム

名前が変わる意味
日本では名前が変わるということが「大人になる」という意味があったと思われます。女装を解くのも成人儀礼の一つでしょう。詳細は以下のコラムでどうぞ。

オウスとオオウス
日本神話に登場する兄弟は大抵「兄はダメ、弟は優秀」というパターンです。これを「末子相続の名残り」と見る人も多いですが、私は「胎盤を第一子と考える風習の名残り」だと思います

まぁ、オオウスとオウスはそもそも双子なので、辻褄が合いませんが、あくまで「名残り」じゃないか?という程度です。
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古事記からの引用

景行天皇の皇后と皇子
景行天皇は吉備臣たちの祖先にあたる若建吉備津日子(ワカタケキビツヒコ)の娘の針間之伊那毘大郎女(ハリマノイナビノオオイラツメ)を娶って産んだ子供が
櫛角別王(クシツヌワケ)
大碓命オオウス
小碓命(オウス)…別名が倭男具那命(ヤマトオグナ)
倭根子命(ヤマトネコ)
神櫛王(カムクシ)
の五柱です。

景行天皇の系譜
オウスは東西の荒々しい神々や従わない人を平定しました。

オウス命の蛮行
景行天皇は小碓命(オウス)に言いました。
「どうしてお前の兄(オオウス命)は、朝夕の食事に出てこないのだ。お前から優しく諭しなさい」
それから五日経っても、オオウス命は食事に出てこないので、景行天皇はオウス命に言いました。
「どうして、お前の兄は長いこと出てこないのか? もしかして、まだ兄に諭していないのか?」
するとオウス命は答えました。
「もう、諭しましたよ」
「どう諭したのだ?」
と景行天皇が聞きました。
するとオウス命が答えました。
「朝、オオウス命が厠(カワヤ=トイレ)に入ったときに、待ち伏せして捕まえ、打ちのめし、手足を引き千切って、ムシロに包んで投げ捨てました」

オウス命は倭比売命から援助を受ける
景行天皇は子供のオウス命の猛々しく荒々しい性格を見て
「西に熊曽建(クマソタケル)というものが二人居る。彼らは従わないものどもだ。お前は西に向かい、彼らを討て」
と言い、オウス命を派遣しました。
このとき、オウス命は神を額に結っている子供でした。
オウス命は叔母の倭比売命ヤマトヒメミコト)の衣服をもらいうけ、剣を懐に入れていきました。
オウス命はクマソタケルの家にたどり着いて見ると、その家の周囲には軍が三重に取り囲んで、家を作っていました。そこで新築祝いの宴会を開くと騒いでいて、食べ物を準備していました。
そこでオウス命はその周辺で宴会の日を待っていました。

クマソタケル兄弟を征伐
宴会の日になりました。
オウス命は少女の髪のように櫛で梳き、垂らして結んで叔母からもらった服を着て、少女のようになり、宴会の女性達の中に混じって家に入っていきました。
するとクマソの兄弟はオウス命が化けた少女を見て気に入り、兄弟の間に座らせて、酒盛りしました。
宴もたけなわとなったとき、オウス命は懐より剣を取り出し、クマソの兄の服の衿(エリ)を掴んで、引き寄せて剣を胸に突き刺しました。
クマソの弟は恐ろしくなって逃げ出しました。
すぐにオウス命は追いかけ、その家の階段の下へと追っていき、背中の皮を捕まえ、剣を尻から突き刺した。
そのクマソタケルが言いました。
「その刀を動かさないでくれ。
言いたいことがある」
それでオウス命は剣を動かさず、クマソタケルを押し伏せた。

オウス命は名乗る
オウス命は
「わたしは纒向(マキムク)の日代宮(ヒシロノミヤ)で日本を治める大帯日子淤斯呂和気天皇(オホタラシヒコオシロワケ)の子供、名前は倭男具那王(ヤマトオグナ)だ。

ヤマトタケルのクマソ征伐
「まさにその通りでしょう。
西には我らを除いて強いものは居ない。
しかし、大和には我らよりも強い男がいた。
私の名前を献上しよう。
これより倭建御子ヤマトタケルノミコ)名乗れ」
その言葉を聴いて、オウス命はクマソタケルを熟した瓜を割くように切り裂いて殺しました。
それからオウス命はヤマトタケルと呼ばれるようになりました。
それで大和へ帰る途中で山の神、河の神や、海峡の神を従えました。
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日本書紀からの引用

景行天皇(二)大碓と小碓の出産
皇后は二人の男の子を産みました。
第一子は大碓皇子(オオウスノミコ)といいます。
第二子は小碓尊(オウスノミコト)といいます。
ある書によると、皇后は三人の男の子を産みました。その第三子は稚倭根子皇子(ワカヤマトネコノミコ)といいます。
その大碓皇子と小碓尊は同じ日に同じ胞(エ=胎盤)に包まれて生まれた双子です。天皇は喜んで、臼に叫びました。

景行天皇(四十)伊勢国の能褒野陵に葬りました
「我が子、小碓王(オウスノミコ)は昔、熊襲が叛いた日は、未だに総角(アゲマキ=古代の成人がやっていた髪型=髪を真ん中で分けて、耳の後ろでまとめるあの髪型)をしていない(くらいに子供)のに、長く征伐(タタカイ)に関わり、常に(天皇の)左右(カタワラ=傍)にいて、私が不及(カケタルコト)を補った。しかし、東の夷(ヒナ)が騒ぎ動くと、討つものがいなかった。愛情を忍んで(我が子を可愛いと思う気持ちを我慢して)、賊(アタ)の境に入らせた。一日とて(我が子を)顧みないことは無かった。朝夕に彷徨い、帰る日を佇(ツマダチ=たたずんで)んで待っていた。どんな禍(ワザワイ)か、何の罪があるのか、不意之間(ユクリモナク=思いがけず)、我が子が亡くなってしまった。これ以後、誰とともに鴻業(アマツヒツギ)を治めるのか」

景行天皇(四十六)皇后の死と新たな皇后
即位53年秋8月1日。天皇は群卿(マヘツノキミタチ)に詔して言いました。
「わたしは愛した子を偲ぶ気持ちがいつの日か無くなってしまった。願わくば、小碓王(オウスノミコ=日本武尊のこと)が平定した国を巡狩(メグリミ=巡り見)たいと思う」
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