神沼河耳命(カムヌナカハミミノミコト)

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カムヌナカハミミ

漢字・読み神沼河耳命
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神沼河耳命(カムヌナカハミミノミコト)

神沼河耳命(カムヌナカハミミノミコト)は綏靖天皇(2代)の本名。
古事記での表記
古事記では神沼河耳命(カムヌナカハミミノミコト)。タギシミミを暗殺した後はその勇気を讃えて「建沼河耳命(タケヌナカハミミノミコト)」となります(タケは「武」なので)。
日本書紀での表記
日本書紀では神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)。
即位後は神渟名川耳天皇(カムヌナカワミミノミコト)。

古事記…葛城の高岡宮。
日本書紀…葛城の高丘宮(タカオカノミヤ)

古事記…衝田崗(ツキタノオカ)
日本書紀…倭(ヤマト)の桃花鳥田丘(ツキダノオカ)
まとめ
●父親は神武天皇
●母親は古事記ではイスケヨリヒメ。日本書紀では媛蹈韛五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)。
●古事記では三兄弟。日本書紀では二人兄弟。
●異母兄のタギシミミに暗殺されそうになるが、逆に暗殺して天皇に即位する。
●古事記での皇后は師木県主(シキノアガタヌシ)の祖先となる河俣毘売(カハマタビメ)。
●日本書紀での皇后は五十鈴依媛命(イスズヨリヒメノミコト)。事代主の娘。日本書紀での神武天皇の皇后の媛蹈韛五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)も事代主の娘。つまり姉妹。
綏靖天皇の子は次の安寧天皇(3代)のみ。
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系譜と物語

古事記での出自
神武天皇 イスケヨリヒメ
日子八井命(ヒコヤイノミコト)
神八井耳命(カムヤイミミノミコト)
神沼河耳命(カムヌナカハミミノミコト)

神武天皇アヒラヒメの子供で…神沼河耳命から見れば異母兄のタギシミミが、神沼河耳命の兄弟を殺害しようとしたために、神八井耳命と神沼河耳命が逆にタギシミミを暗殺した。暗殺の際に兄の神八井耳命がすくんでしまって殺せなかった。弟の神沼河耳命が殺したので、神沼河耳命が2代目の天皇に即位した。

日本書紀での出自
神武天皇 媛蹈韛五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)
神八井命(カムヤイノミコト)
神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)綏靖天皇

古事記では三兄弟だが日本書紀では二人兄弟。古事記と同様に神武天皇とアヒラツヒメとの間に生まれた異母兄のタギシミミが兄弟を殺そうとしたので、逆に暗殺した。古事記と同じで、神八井命が殺せなかったので、弟の神渟名川耳尊が暗殺して、綏靖天皇となった。

古事記での子
綏靖天皇
河俣毘売(カハマタビメ)…師木県主(シキノアガタヌシ)の祖先
師木津日子玉手見命シキツヒコタマデミノミコト)

日本書紀の子
綏靖天皇
五十鈴依媛(イスズヨリヒメ)…異説に磯城縣主(シキノアガタヌシ)の娘の川派媛(カワマタヒメ)・春日縣主大日諸(カスガノアガタヌシノオオヒモロ)の娘の絲織媛(イトリヒメ)
磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)
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雑記

微妙に違う古事記と日本書紀
古事記で三兄弟なのが、日本書紀では二兄弟。
古事記では勇気を讃えて神沼河耳命から建沼河耳命に改名しているが、日本書紀は改名のくだりはない。
暗殺の経緯は古事記より日本書紀の方が細かく書いてあると考えると矛盾はないが、日本書紀の経緯はどうも「儀式」っぽい。儀式を物語にしただけに見える。
●個人的にはこの経緯は季節型神話ではないかと思っています。季節型というのは冬が終わり新たな春が来る神話です。兄が死に、弟が生きて跡を継ぐという形式は日本神話のパターンです。

カムヌナカワはいつ皇太子になったか
古事記も日本書紀も、暗殺の時にカムヌナカワが活躍したことで、天皇になった!という描き方なんですが、日本書紀では神武天皇即位42年でカムヌナカワが皇太子になり、神武天皇即位72年で神武天皇が崩御しています。暗殺事件は、物語の経緯を考えると当然ながら神武天皇の死後ですから、「タギシミミ暗殺」がカムヌナカワ即位(=立太子)の理由ではないハズです。暗殺とは関係なく、カムヌナカワは後継者だったのです。タギシミミ暗殺はカムヌナカワが即位する理由ではなく、タギシミミが暗殺・追放された理由でしょう。
ヌナカワについて
ヌナカワという単語は出雲神話のオオクニヌシ(=ヤチホコ)の妻問い相手の沼河比売(ヌナカワヒメ)や、四道将軍の一人で大毘古命(孝元天皇の子・大彦自身も四道将軍)の子の武渟川別(タケヌナカワワケ)にも見られる。沼河比売は越国の女神。武渟川別の父親の大毘古命は四道将軍として、越国へ派遣されている(ただし武渟川別は東国)。「ヌナカワ」という単語は東国や越国と関係しているんじゃないかと。
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古事記からの引用

神武天皇とイスケヨリヒメが結ばれる
それで生まれた子の名前が
日子八井命(ヒコヤイノミコト)、
神八井耳命(カムヤイミミノミコト)、
神沼河耳命(カムヌナカハミミノミコト)
の三柱です。

カムヌナカワミミの勇気
そのことを聞いた皇子たちは、驚いてすぐに当芸志美美(タギシミミ)を殺そうとしました。神沼河耳命(カムヌナカハミミノミコト)は兄である神八井耳命(カムヤイミミノミコト)に言いました。
「兄よ
あなたが武器を持って入って、当芸志美美(タギシミミ)を殺してください」
そこで兄である神八井耳命(カムヤイミミノミコト)は武器を持って入って殺そうとしましたが、手足が震えて、殺すことが出来ませんでした。そこで弟である神沼河耳命(カムヌナカハミミノミコト)は兄の持っていた武器をもらい受けて、入って当芸志美美(タギシミミ)を殺しました。
それで、その名を称えて建沼河耳命(タケヌナカハミミノミコト)といいます。

神武天皇とイスケヨリヒメの子孫
神沼河耳命(カムヌナカワ命=綏靖天皇)は天下を治めました。

綏靖天皇
カムヌナカワミミ命は葛城の高岡宮で天下を治めました。この天皇は師木県主(シキノアガタヌシ)の祖先となる河俣毘売(カハマタビメ)を娶って、産んだ子供が、「師木津日子玉手見命シキツヒコタマデミノミコト)」の1柱です。
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日本書紀からの引用

辛酉年春正月庚辰朔 神武天皇が帝位に
皇子の神八井命(カムヤイノミコト)と神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)が生まれました。
それで褒めて言いました。

卌有二年春正月壬子朔甲寅 神武天皇の崩御
神武天皇が即位して42年の春1月3日。
皇子の神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)が皇太子(ヒツギノミコ)としました。

綏靖天皇(一)父の死後、手硏耳命の反逆の計画
48歳になり、神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレヒコスメラミコト)は崩(カムアガリ=神になり天に上がる=死ぬ)しました。そこで神渟名川耳天皇(カムヌナカワミミノミコト)は孝性(オヤニシタガウヒトトナリ)は素直で深く、(親の死を)悲しみ偲(シノ)び、喪葬(ミハブリ)の儀式に取り組みました。

綏靖天皇(二)渟名川耳尊と神八井耳命の暗殺
神渟名川耳尊(カミヌナカワミミノミコト)は兄の神八井耳命(カムヤイミミノミコト)と密かに、その殺害計画を知り、どうにか防ぐことにしました。山陵(ミササギ)の儀式(=神武天皇の葬儀)のときになり、弓部稚彦(ユゲノワカヒコ)に弓を作らせました。倭鍛部天津眞浦(ヤマトノカヌチアマツマラ)に眞麛鏃(マカゴノヤサキ=鹿の矢じり)を作らせました。矢部(ヤハギベ)に矢を作らせました。弓矢が出来て神渟名川耳尊(カミヌナカワミミノミコト)は手硏耳命(タギシミミノミコト)を射殺そうと思いました。たまたま手硏耳命(タギシミミノミコト)が片丘(カタオカ=奈良県北葛城郡王寺町・志都美村・上牧村の辺り)の小屋の中で一人で大きな寝床にいました。
その時、渟名川耳尊(ヌナカワミミノミコト)は神八井耳命(カムヤイミミノミコト)に語りました。
「今がチャンスだ。
言葉は控えて。
行動は静かに。
わたしの陰謀(シノビハカリゴト)には誰も助けてくれる人はいません。今日の事はただ、私とあなたが自発的に行動するだけです。わたしが小屋の扉を開けるので、あなたが射って殺してください」

綏靖天皇(三)神八井耳命は皇位を弟に譲る
二人は協力して小屋に入りました。神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)は扉を突いて開きました。神八井耳命(カムヤイミミノミコト)は手足が戦慄(フルイオノノキ)して矢を射ることが出来ませんでした。神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)はその兄の持っていた弓矢を引き抜いて取り、手硏耳命(タギシノミミノミコト)を射ました。一発で胸に当たりました。もう一発、射つと背中に当たり、ついに殺しました。
これで神八井耳命(カムヤイミミノミコト)は自分の非(=射ち殺せなかった事)を恥ずかしく想い、神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)に皇位を譲って言いました。
「私は兄ではあるが、未熟で弱く、不能致果(イシキナ=良い結果は出ない)いだろう。今、あなた(=ヌナカワミミ)は優れて神武(アヤシクタケシ)がある。私は悪い所がある。あなたが天位(タカミクラ=皇位)について、皇祖(ミオヤ)の業(ツギテ=継ぐこと=天皇の仕事)を受けるのはもっともなことだ。わたしはあなたの助けとなって、神祇(アマツヤシロクニヤツシロ)を司り祀りましょう」

綏靖天皇(四)婚姻と系譜
綏靖天皇が即位した元年の春1月8日。
神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)は皇位を継ぎました。葛城に都を作りました。それが高丘宮(タカオカノミヤ)といいます。皇后(=神武天皇の皇后の媛蹈韛五十鈴媛命のこと)を尊び、皇太后(オオキサキ)と呼ぶようになりました。この年は太歲庚辰です。

安寧天皇(一)安寧天皇が皇太子となり皇位につくまで
磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト=安寧天皇)は神渟名川耳天皇(カムヌナカワミミノスメラミコト=綏靖天皇)の嫡男です。
母は五十鈴依媛命(イスズヨリヒメノミコト)で、事代主神(コトシロヌシカミ)の娘です。安寧天皇は神渟名川耳天皇(カムヌナカワミミスメラミコト=綏靖天皇)が即位して25年のときに皇太子(ヒツギノミコ=次の天皇候補)となりました。年齢は21歳でした。
綏靖天皇が即位して33年の夏5月に神渟名川耳天皇(カムヌナカワミミスメラミコト=綏靖天皇)が崩(カムアガリ=神になって天にあがる…死ぬ事)しました。その年の7月の三日に太子(ヒツギノミコ)は皇位につきました。

安寧天皇(二)即位後
安寧天皇即位の元年冬10月11日。
神渟名川耳天皇(カムヌナカワミミノスメラミコト=綏靖天皇)を倭(ヤマト)の桃花鳥田丘(ツキダノオカ=奈良県橿原市四条宇田井ノ坪?)の上の稜(ミササギ=墓)に葬りました。皇后(キサキ=五十鈴依媛)を尊び、皇太后(オオキサキ)としました。
この年は太歲癸丑でした。
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