仲哀天皇

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仲哀天皇

漢字・読みチュウアイテンノウ
別名帯中津日子尊(タラシナカツヒコ)・久度神
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概要

ヤマトタケルの第二子で第14代天皇。妻が神功皇后で第15天皇応神天皇の父親です。
まとめ
神功皇后の活躍の陰に隠れて陰が薄い。
●九州に遠征する。
神功皇后に神を降ろす儀式で、死んでしまう。
●暗殺されたのではないか?とよく言われる。
日本書紀の異伝には「クマソとの戦争で死んだ」とある。

物語・由来

影の薄い夫
仲哀天皇は九州のクマソ(熊襲・熊曾)を討伐していた。するとある日、「西に金銀財宝豊かな国があるので、それを与えよう」と神託があった。山に登り西を見るが、何も無い。仲哀天皇は何かの間違いと神託を無視し(汝は一道に向ひたまへ)、結果死んでしまう(なほ大御琴をあそばせ)。
この後は妻である神功皇后が応神天皇を懐妊したままで、神託の通りに「三韓出征・新羅討伐」へと向かうという偉業を成し遂げるのですが、仲哀天皇といえば、その陰に隠れて存在感が薄い天皇という印象しかありません。
妻と子と一緒に祀られる
全国の八幡宮に祀られていますが、神・天皇としての性格はその後の大活躍の影響で、妻と子(応神天皇=八幡様)のオマケ程度になっている仲哀天皇。しかしその経緯を考えると、いろいろと想像を膨らみます。
神功皇后の三韓出征によって朝鮮半島の国々に貢物を贈らせるようになったとされます。実際その後百済や新羅から貢物を得るようになります。朝鮮半島への出兵自体は朝鮮に残る文書(三国史記)によると事実です。つまり仲哀天皇は朝鮮出兵に反対した結果殺された――可能性もあります。
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引用

神社や関連する土地

香椎宮
気比神宮
平野神社
穴八幡神社
忌宮神社
柞原八幡宮
千栗八幡宮
鹿児島神宮

個人的コラム

仲哀天皇の死について
仲哀天皇の死について憶測は様々あります。妄想しやすい要素が多いからです。神を下す儀式の中で死んでいて、現場に居合わせたのは神宮皇后と建内宿禰だけ。犯人はどちらか?と考えるのは必然です。しかしだからといって、どちらかが犯人というわけにはいきません。

こういう理屈を立てる人は「古事記に書いてあることはフィクションが多い」と言いつつ、自分の結論に都合のよいところを事実として抽出するご都合主義があります。ここで確実に言えるのは
●雄略天皇が倭の武帝とされることから仲哀天皇・神宮皇后は4世紀の人物と推測。
●347年と393年に新羅の金城を倭人が包囲したと三国史記の新羅本紀にある。朝鮮半島には中国の暦が早くから伝わっているためにこの年号は確かと考えられる。
●4世紀後半に百済から七支刀が送られ石上神社に祭られている。日本書紀には神宮皇后が百済から送られたと記載してある。
●推古天皇・皇極天皇など天皇が死ぬと皇后が権力を持つシステムがあったと推測。

上記は「物証」と「外国の史書」を見るに「事実」と考えて差し支えない。この中で仲哀天皇が死んだ理由が自然死ではなく暗殺というのはありうるが「推測の域」を出ない。
仲哀天皇は戦死でしょう
日本書紀には異伝として「仲哀天皇はクマソとの戦争で死んだとあります。

古代では戦争は「運」が左右するもので、ということは神が大きな影響力を持つものです。戦争で仲哀天皇が死ぬってことは、仲哀天皇は神に否定されたってことです。その「神に否定された」という経緯を物語にしたものが、記紀で描かれる「神功皇后と仲哀天皇の神おろし」後の仲哀天皇の死なんだと思います。
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